2016年3月 のアーカイブ

生き返っても、あの世

2016年3月2日 水曜日

村上竹尾著「死んで生き返りましたれぽ」の続編。自身の不摂生が招いた死と再生。その狭間のお話。実話。

DSC_0051
前作では著者が倒れてから復活するまでの驚きに満ちた過程が淡々と描かれていた。しかし本作では一転、リハビリの中で見た、現実とも幻覚ともつかない世界に翻弄される作者の苦悩と本音が描かれる。

前作「死んで生き返りましたれぽ」は本当に素晴らしい作品で、私はいまだに何度も読み返している。脳死寸前まで追い込まれた筆者が回復していく過程は、まるで火の鳥復活編のレオナのようだった。レオナは狙撃され瀕死の重傷を負うが、人口脳を移植され一命を取り留める。しかしその副作用で生物は無生物に、無生物は生物に見えてしまうのだ。筆者は目や耳が受け取った外界の情報を脳が理解できないという経験をする。見えていないものが見え、知っていたはずのものが思い出せない。失礼な話だが、そうした症状の描写にすさまじい知的興奮を覚えた。脳ってどうなってるの!?

この続きが読みたいなあと思っていたのだ。感覚が回復していく過程を読みたい。失われた記憶や経験を、脳はどうやって取り戻していくのか。そこで何が見え何を感じたか。

不満もあった。

助かってよかったというのはわかる。感謝もわかる。しかしもっとこう、自暴自棄に至った心理や、いっそ死んだほうがよかったのにと、おせっかいが鬱陶しいんだよと、そう感じたことはないのか。そこんとこはどうなのよ。

そんなこんなを漫画家である村上竹尾が描かなくて誰が描くんだ。そんなことを勝手に思っていたのだが、なんと続編が出版された。嬉しい。




そして読み終わった今。

認識は不思議だ。
何かを美しいと感じ、楽しいと感じる。外界を外界と認識する。そんな抽象的な感覚も経験によって補正がかかっているらしいのだ。現実をそのまま受け取ると人間は辛くて生きていけないのかもしれない。その経験の蓄積を失うことがどんなに恐ろしい結果を引き起こすか。あの時、同じ花を見て美しいと思った心は、今はもう返らないのか。そんなことばかり考えてしまう。

前作ではどこか諦観すら感じられた著者だが、本作ではよく不安を口にする。生きるために他者と関わることを選んだことで、本音を吐いてもいいと学習したのではないか。人と関わるのを嫌った著者が孤独の中で死にかけ、他者を頼りながら立ち上がる。

ああ、これは私に対する警句だな。私も他者と関わるのは苦手だから、その大切さがヒリヒリと伝わってくる。自分はどうするのか。誰かに頼って死の淵から蘇る度胸はあるか。自問自答は続く。



以下は蛇足。本作の感想はここまでなので読む必要はない。いいですね。読む必要はないですよ。
(さらに…)